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第三編 東京専門学校時代後期

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第十五章 早稲田学風を顧みる

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一 操山の「学風論」を火元に

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 明治三十年を中心として前後に亘る数年に、我が学苑は一つの新しい問題に当面した。早稲田学風とは何かという疑問が生じてきたのである。

 学風というのは中国の辞典にも見えぬ言葉であり、『言海』にも『辞林』にも明治の辞典では検索できぬ。しかし昭和になって編纂せられた『辞苑』に「学問上の傾向、学校の気風」という説明があり、戦後の『日本国語大辞典』には「学問を研究するうえでの好尚、態度、傾向。また、学校の気風。校風。」と記されている。平凡で、自明のことのようでもありながら、捕風捉影の微妙な問題で、分ったようで分らず、分らぬようで分り、マシュー・アーノルドの言った「聞かれたら返答に困るが、聞かれないなら分っている」という答が名言なのを思う。

 このように昭和になって初めて辞書に登録されたが、しかし出現したのは明治の初年で、誰が作り、また用い始めたのかは尋ねる由がないとしても、問題として提起して学界の輿論を呼び起した火元は、我が大西祝である。文学科の柱石として早稲田の学問的地位を高めたと言われるこの哲人は、明治二十九年八月、西園寺公望が興した新雑誌『世界之日本』第二号に「学風論」を掲載して、たちまち諸新聞・雑誌に大きな反響を呼んだ。ただし、大西祝は、当時の我が学問一般が実利実用の偏向に堕していく傾向を、当時の学風と名付け、没詩趣の弊を指摘して、その反省を求めたので、決して個々の学校に言及したのではなかった。

 尤も、家風という言葉は江戸時代から広く行われ、水戸様御家風、薩州様御家風というように、大名の藩風の意に用いられ、また三井の家風、鴻池の家風というように、豪商の庭訓の意味を含めて使われ、普通の家でも、「あの嫁はうちの家風に合う」とか「合わぬ」とかいうような表現をして、一般化していた。明治になって学校が次第に普及するに伴い、これが家から学校に転じて学風の新語が人々の口の端にのぼるようになるのは、当然である。それも多分、この早稲田での旗揚げが、全国諸学校にこの問題への考慮を促す魁をなしたであろう。大西が学風を一般的に用いて、実用化一辺倒の時弊を突いてから三年の後、この語を単独の校名にかぶせた一書が現れた。すなわち『早稲田学風』である。明治三十二年四月、東京専門学校出版部の刊行で、著者村松忠雄は如何なる人か後世に聞えないが、むろん学苑で学んだ者であり、自費出版ではないかと思われる節もある。

 思うに転石苔むさずの諺の如く、紛糾を切り抜け、激流に抗する初期校歴の中においては、学風を顧みる暇はなかったが、創立後十五年余、漸く渾沌時期を脱し、ここに一種の余裕ができて、顧みると、校風が日暈月暈の如くにいつの間にか学校に付帯して生じていたのである。大隈重信はこの書に序して言う。

重信当時野に在りて身を政局に委ねしを以て、人或は為にする所あると疑ひ、物議囂然として起る。既にして時論変遷、重信が微衷此に始めて顕れ、今や世上亦疑団を存する者なく、校運日に益振ふに至り、得業生の数は年を追ふて増加し、中央を問はず地方を論ぜず、社会各般の業務を執る者已に数千人に及べり。豈喜ばざるを得んや。 (『早稲田学風』 一―二頁)

更に校長鳩山和夫は、数字をもっと具体的にし、

茲に十有八年、盛衰一ならずと雖、校員諸氏の熱心と誠実とは社会の信任を厚ふし、二千の得業生を出し、一千を超ゆるの校内生と、三万に垂んとする校外生を有する一大私立学校となれり。 (『早稲田学風』 三頁)

と言い、更にこの書の内容に及んで左の如く結んでいる。

村松君の著『早稲田学風』は、能く専門学校過去の歴史を述べ、現在の形況を説き、加之吾輩が世論の逆流に抗し、毅然として動かざりしを論じ、繁簡宜しきを得、以て我東京専門学校を社会に紹介〔す〕るに足る。 (同書 四頁)

 しかしこの著者は「過去の歴史を述べ、現在の形況を説」くのを、校風を明らかにすると考えている如く、「世論の逆流に抗し、毅然として動か」なかった経過を明らかにする記述は、非常に薄弱であるので、坪内逍遙から、果然、反対不満の声が揚がった(『早稲田学報』明治三十二年十一月発行第三三号六頁以降参照)。これには精神的な、今の言葉で言えばイデオロギッシュな記述があまりに少すぎるが、学風と言う以上それが主軸にならねばならぬというのである。逍遙は当時文芸から遠ざかって、実践倫理の研究に専念している時で、その立場からこの著書の不備を並べ、持前の克明細微な組織立てで、自分が早稲田学風の主要点と考える精神を解剖し、開陳した。

 今日の立場から振返ると、この場合は逍遙の立言で足りているようであっても、自らの特長を認めることには積極的で、欠陥をさらけ出して反省に資する点が弱い。言葉を換えて言えば、形も振りも構わずさらけ出したような露骨さがない。これは当時、漸く学苑が校運盛大に赴いたとはいっても、まだ勢力が不安定で、うっかり自分から弱点をさらけ出して隙間を見せると、そこから乗ぜられて、校運の不利を来たす恐れがなしとしない。そこで綺麗ごとを並べ立てて、表面を糊塗するような上すべりがして、心肝に徹せぬ憾みがある。今やここに創立百周年を迎えるに及び、我が校勢は隆昌の極に達して、入学志願者数、全国大学の筆頭をなし、如何なる弱点を自己紹介しようが、どんな隙間を見せようが、びくとも動揺せぬ段階に達している。否、表面を飾って余所行きを装うよりも、膝を崩し、弱点も掩いなくさらけ出した方が、学風をまとめるという点では却って真に迫るを得るであろう。

二 政府顧問と村会議員

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 家風は、表玄関から床の間へまっすぐに進むよりも、台所口から声をかけて、調理の現場を見たり屑物籠をのぞいたりする方が、却ってよく分る。早稲田学風を尋ねるのも同じで、建学の精神、学問の独立と大上段に振りかざすのは聞かなくても分っていることで、それにばかり拘っていると、却って大切な陰影を見落すことになりやすい。ここではきわめて卑近な例から取り上げて、早稲田の濛々と醞醸してきた雰囲気、広い意味での学風を追ってみよう。

 数年前、新聞社の出した週刊誌が早稲田大学を特集して、驚異的な多数読者を獲得したことがあり、それも我が学苑の盛況を裏付けたが、抜け目なく通俗的興味を狙って校友の女優その他に質問を発すると、口を合せたように「早稲田の泥臭いところが好きだ」との答が返ってきていた。これで思うのは、明治の末年、『女学世界』という雑誌が一時才女の名の高かった内藤千代子を寄稿家に擁して看板にしていたが、彼女は名代の一高贔屓で、常に早稲田の学生をその対照にして「早稲田田圃の泥蛙」と悪態をついていた。それと関係があるかどうか、文壇において早稲田派の作家が容易に自然主義の体臭から脱却できないのを、「早稲田田圃は地下三尺まで自然主義がしみこんで、その泥臭さがいつまでも作品につきまとう」と、『帝国文学』の批評家が罵っていた。何れにしても泥との連想は、早稲田につきまとっている。ただ疇昔、痘痕の如く忌み嫌われていた泥臭さが、今日では靨の魅力に変った観があるのは、維新直後「オイどんが……しちょる」という薩摩言葉が新東京を風靡した如く、背後の勢力の増大が末梢にまで及んだ証拠であろう。

 泥臭いというのは、多年早稲田の形容詞として枕言葉のように定着していた「田舎臭い」というのと、同義語であろう。これは先ず学苑の所在地に関係したものに違いなく、明治時代、南豊島郡下戸塚村という寒村に誕生した大学は早稲田だけである。始めから本郷、神田、或いは築地、三田に開校したのであったら、また色合いが若干変ってきたかもしれぬ。且つまた、中津藩の藩屋敷に開かれて、初めは専ら藩士を糾合した慶応や、各藩からの貢進生の影響が永く尾を引いている東大が、平民を離れた高踏的な伝統を作ったのとは違い、自由民権論が勢焔を上げてきた時代に発足した早稲田には、士族とともに百姓の倅、平民の子弟がなだれこんで、庶民的雰囲気を横溢させたのだ。

 東大の諸教授が平日でもフロックコートを着て威儀堂々と講義したのに対して、初期の早稲田の講師砂川雄峻は、京橋に開いた法律事務所から早稲田まで通うのに、雪の日は必ず草鞋ばきで来るのが目立った。およそ草鞋の痕を教壇の板敷に印した学校が他にあろうか。また坪内雄蔵の「羊羹色の羽織」というのもよくゴシップになっている。黒紋付の羽織が古びてくると色が剝げるのを羊羹色と言ったのだ。

 東大の諸教授は、民法や刑法など法律の制定や改訂に政府から諮問を受け、授業中でも途中で中止して、差廻しの俥上に肩で風を切って内閣へ向うのを常とした。早稲田の教授は、戦時国際法の顧問として水師営の乃木・ステッセル会見に立ち会った有賀長雄のようなのは例外で、直接政治に接触しようとすれば、浮田和民安部磯雄のように、高田村や雑司ヶ谷村の村会議員に出馬しなければならなかったのである。

三 文芸題材としての帝大と早稲田

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 思うに、明治時代における東京帝国大学と東京専門学校=早稲田大学との格差を最も明瞭に反映しているものは、小説であろう。新文学の先頭を切る作品は坪内逍遙の『当世書生気質』である。明治十八年の発表だから、その時学苑は既に開校していたが、この作はそれより六、七年前の明治十一、二年頃の市内私立学校に取材したものだという作者の話であるから、当然、早稲田はこの裡に描かれていない。

 しかし私立学校の不備乱雑な生活を描いたものと言いながら、モデルは作者をはじめ、大学時代からの親友高田早苗、寄宿舎で一緒の山田一郎岡山兼吉、関直彦などであったと、逍遙自ら語っている。また桐山という書生が西瓜を買ってきて、庖丁がないので拳骨をくらわして叩き破り、これを食う場面がある。実際にあった話で、モデルは三宅雪嶺なのはあまりにも有名だ。この頃は東京大学も創立早々で、整備せられず乱雑であった。そしてこれらの人が大挙して早稲田の創立、初期の授業に参画しているのであるから、草創期早稲田は東大の出店の観を呈していても、それは未だ最高学府としての威容が整わぬ以前の、無邪気・乱暴・殺伐・質朴の風を持ち込んで、早稲田学風最初の空気を作っていることになる。

 その後の小説では、尾崎紅葉の『金色夜叉』の間貫一(これは高等中学中退で学士とならず、高利貸になった未成品東大生)や俠骨稜々の荒尾譲介、また泉鏡花の『湯島詣』の神月梓という文学士や『日本橋』の葛木晋三(これは終戦とともに毒薬を仰いで自殺した橋田文相がモデルだという)、小栗風葉の『青春』の関欽哉、木下尚江の『良人の自白』の白井俊三、夏目漱石の、『吾輩は猫である』や『虞美人草』以下、絶筆の『明暗』に至るまでの諸作の諸人物、皆東大生である。殊に泉鏡花の諸作は、東大生もしくは学士が芸者にもてる話が多く、これで作者は東大生に最高の敬愛の情を寄せた積りであるらしい。尤も鏡花の描く人物には気がさしたとみえて、高山樗牛は一喝を食らわせている。

文学士たる神月はマルデ傀儡の如きものでは無いか。彼れを大店の若旦那としても、今様の丹次郎としても、乃至は済生学舎の書生としても毫も差支は無いのである。例へば是の文学士は、蝶吉のワキとしての外は生存の意義も事業も何も無いでは無いか。斯様な文学士がマア何処に在るであらうぞ。 (『樗牛全集』第二巻 八一四頁)

 そのように明治の小説の名作の主人公は東大全盛のように見えながら、仔細に見るとそうばかりとは言いきれない点もある。風葉の描いた関欽哉は、「うつし世の、うつつの歓楽今さめて」という楽劇の著作を以て華々しく芸壇にデビューするのだが、これは、坪内逍遙創作の新楽劇『新曲浦島』の模倣以外の何ものでもない。そして彼が滔々と述べる美学論は、島村抱月の名著『新美辞学』巻末の所論の丸写しではないか。形は東大生ないしその卒業の学士を借りながら、その内容精神は早稲田から採ってきて不細工に嵌めこんでいるのである。

 木下尚江の『良人の自白』に至っては一層不可思議である。その主人公白井俊三は恩賜の銀時計の秀才だが、社会主義的傾向があるのを警戒されて洋行の恩命から外される。彼は、中学時代、西洋史の時間に、はからずもクロムウェルがチャールズ一世を法に照らして断頭台へ送ったことを教わり、その国王を裁いた法を知りたい念願一途で法科に入ったのだが、これは、当時、早稲田法科だけがイギリス憲法を教えていたから、東京専門学校に入学したとは、木下尚江自ら『懺悔』以下の著名な自伝的著作でしばしば語っているところである。

 これでみると、風葉も尚江も小説の主人公の魂は早稲田に取材しながら、それでは世間的価値が少いので、メイク・アップだけ東大的脂粉を用いたことになる。殊に白井俊三に至っては、東大には全く育たぬ型の学生であり、言い換えれば東大型の人形に早稲田でなくては見られなかった反逆の精神を吹き込んでいるので、この点は特に注目に値する。

 恐らく早稲田マンを小説に捉えて最初に活現したのは、夏目漱石である。その『三四郎』に脇役として登場する佐佐木与次郎は、はっきりと専門学校出と書かれてあるが、諸種の背景的描写から、東京専門学校を卒業して東大の英文科選科に入ったことが分る(そういう学生の例はたくさんある)。主人公の三四郎(これは小宮豊隆がモデルであることはあまりにも有名だ)の、熊本の高等学校からぽっと出の都会馴れせぬ無知と素朴とを圧倒して、才気煥発、縦横無尽に活躍するのが与次郎である。豊富な世界文学の知識を持ち、絢欄滔々たる達者な文章家でもある。彼を玄関に置いている偉大なる暗闇の広田先生(一高の有名な哲学教授で奇人の評の高かった岩元禎がモデルであったと言われる)が、つくづくと眺めて驚歎し、且つ軽蔑している。尊敬とともに軽蔑に値し、驚歎とともに憫笑すべき点を具有する与次郎は、思うに漱石が帝大の学生時代、早稲田の講師をしてつぶさに知った学生の気風を写し出したものであり、漱石の早稲田観の撮要であり、圧縮であると、言ってもよかろう。

四 不忍池の雁と鯉

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 漱石と並んで、自分を中心によく東大人を描くのは森鷗外で、殊にその『雁』は、明治十年代後期の、鷗外が学んでいた頃の医科大学生の一面を描いたものとして、ここで考察の料として取り上げるのに究竟の好資料である。

 主人公の岡田は、眉目清秀の上に嫌味のない性質が誰からも好意を寄せられて、当時憧れの的の洋行も決まっている。近所に囲われ者の目立って美しい女性でお玉と名告るのがいたが、その家の鳥籠を蛇が襲って、女なのでなす術もなく大騒ぎしているのを通りがかりに見た岡田が飛び込んで、蛇を退治してやったのが縁で、互いに顔を見れば挨拶を交して、親しみを感じ合うほどの仲になっていた。

 ある夕方、岡田は三、四人の同級生と上野不忍池のほとりを散歩していたら、数羽の雁が飛び降りてきたので、別に殺す気もなく石を投げると、思いがけないことに不運な一羽に当って、ぐたりと首を垂れて横に倒れた。友人の石原が池に入っていって、枯蓮の間を掻き分けながら拾ってきたその雁を、外套の下に入れて隠しながら歩いていると、突然石原が言い出した。

君円錐の立方積を出す公式を知つてゐるか。なに。知らない。あれは造做はないさ。基底面に高さを乗じたものの三分の一だから、若し基底面が圏になつてゐれば、〓πhが立方積だ。π=3.1416だと云ふことを記憶してゐれば、わけなく出来るのだ。僕はπを小数点下八位まで記憶してゐる。π=3.14159265になるのだ。実際それ以上の数は不必要だよ。

(『鷗外全集』第八巻 六〇〇―六〇一頁)

 さて、なぜこういう話をし出したのかというと、大学生が三、四人群をなして夜歩きすると人目を惹きがちである。たまたま交番近くへ通りかかったので、何食わぬ顔で通り抜けないと挙動不審を咎められて、巡査の査問を受けぬとも限らぬ。そこで、雁を隠し持つ石原の機転で話を数学問題に集め、誰何を受けずに通り越すことに成功した。その夜、早速それを料理して雁鍋で祝盃をあげた。実は岡田は、この夜、或いはお玉を訪うかもしれぬという責任のない軽い約束をしており、彼女は化粧を凝らして心待ちにしていたが、とうとう岡田は訪ねず、二人は遂に平行線のままで終った。

 この小説に描かれているのは、恐らく東京専門学校創立以後の時代であろう。しかしまだ微々たる存在だったので、鷗外はその学生の一人を捉えて、三四郎に対する与次郎の如く、ここに配するという技巧は用いていない。だが、もし石原が早稲田の学生であったとしたら、このような数学の話がふさわしいとは全く思えない。もとより、東京専門学校にも、創立の頃には理学科があり、その入学生には、こういう方面に理解と興味のある学生がいないとは限らなかったであろう。しかし入学者が少く、数年で廃科にしているから、早稲田の雰囲気を作り、学風を固めるのに貢献するところはまずなかったのである。

 しかし、『雁』という小説に対して思い出される実話が早稲田には一部に語り継がれている。その頃は不忍池の水は綺麗で、そこの鯉も密猟すれば食料になったらしい。冬の夜、早稲田から猛者が幾人か夜釣りに出かけたが、巡査の靴音が聞えてきたので、皆釣道具を捨てて逃げ散った。が、唯一人だけ残った者がいた。そして悠々と大鯉を釣り上げたが、魚籠を携えていなかったので、着ている羽織を脱いで包んでもまだバタバタ跳ねて、どうにも始末が悪い。そこで大きな石を拾って鯉の頭を叩き潰し、交番にも咎められずに持ち帰り、夜食に鯉汁を作って皆で舌鼓を打った。

 どちらも不忍池の密猟の話だが、鷗外の描いた東大生は、どこか垢抜けして上品で、且つひどく知的である。早稲田に残る実話はいかにも殺風景で、或いは野蛮でさえあるが、しかし直情径行で、無邪気で、愛嬌があって、憎めなく、今日まで語り伝えられて残っているのだ。早稲田の気風の一側面とするに足らぬか。

五 落第と牛肉

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 落第は学生にとっては、失望であり、恐怖であり、災厄であり、不名誉言うべくもない。しかるに夏目漱石一党は、「何憂席序下算便」という戯詩を作って太平楽を並べている。当時は、巻紙のような長い紙に書いて試験の成績順を貼り出したので、好成績の者は席次が頭の方にある。それを逆に尻の方から見ていく方が便利で手っ取り早いというのが「席序下算便」で、そんな成績を取ろうが問題ではないという心意気を詠じ、点取り虫的勉強家の卑屈さを罵ったものだととれる。

 翻って早稲田の方でも、落第の話題は浜の真砂とともに尽きまいが、国木田哲夫(独歩)が、郷里の彦根に帰っている親友の大久保余所五郎(湖洲)に宛てて、試験の結果を報じた明治二十三年七月二十日付書翰で、次の如く述べている。

今日(否今朝然り只今)僅かに試験の成績相知れ取りあへず通知す。然し残念なり。実に残念なり。君は次席なり。二番なり。柳井氏一番にして種村君三番なり。さり乍ら先づ安心し給へ。君と柳井氏二人のみ優等!僕は落第!Why? I don'tknow!(『国木田独歩全集』第五巻 二三〇頁)

漱石の示した戯詩は磊々落々として、落第の一般的感情からすればやや桁外れの観があるが、独歩が「僕は落第!」とエクスクラメーション・マークを打って、やや狼狽の色を見せているのは、当時の学生として(或いは今でも)普通であろう。独歩は次の七月二十三日付書翰で、インフルエンザに罹って生理と文集(英文大家文集)の試験を受けなかったため落第したので、未済試験で取り返せる当てのあることを述べ、「余の運命は未来幾十年にわたれり、余何ぞ落第位に落胆せんや。」(同書同巻二三二頁)と強がりを言っているのは、普通学生の凡情で、特殊な点はない。当時、帝大生は貸費生と言って、大抵国家が学費を貸してくれていたのである。落第したらその特典を取り消されたが、どうにかこうにか及第しておりさえすれば、学費は日の丸の丸抱えだから、気が大きい。早稲田の場合は親がかりなので、落第したら二重の負担をかけることになる。そういう経済的内情も、この異る二つの「落第」の場合を差異あらしめているであろう。

 話題を変えて、牛肉のことになると、明治十年代は、四足の肉を食うのは仏壇に相すまぬと言って、一般家庭ではまだ敬遠されていたが、文明の尖端をいく東大生は、そんな封建的旧感情にこだわっていない。貸費の剰余で盛んに牛肉を食ったことは『当世書生気質』を見ても分るし、次の世代の夏目漱石や中村是公も試験がすむと机は積み上げ、ポテンシャル・エナージーを養うのだと言って、実に目覚しく盛んに牛肉を食って、ボートを漕いでいたことを語り残している。

 早稲田の方には、それほどたくましい食欲のデモンストレーションは見られない。初期の東京専門学校の寄宿舎生は、街から遠く離れた村落に隔離されたようにして生活するのだからとの配慮から、せめて食物だけでもよくしてやろうと、普通の下宿より多少うまい物が食卓にのぼり、従って入舎費も他よりやや高価だったとの説さえないではない。だが界隈が開けてくると忽ちその特色は失われ、明治中期には、仕送りの豊かな学生は下宿党となり、寄宿舎の歌としては盛んにこう歌われていた。

拍子木鳴りぬ扉は明きぬ

食うべきものは何々ぞ

人参牛蒡に蒟蒻添えて

雪駄のようなる牛の肉

 本郷には東大生相手の江知勝という牛肉屋の高楼が堂々と聳え、早稲田の学生は、特別の会合というと、そこまで出かけたものである。早稲田近辺には、そのように高級な牛肉屋は一軒もなく、一鍋五銭の馬肉屋が江戸川橋付近に〓集しているだけであった。「俺は卒業すると先づ黒い洋服(フロツクコート)を着て演壇に登り諸君と呼ぶ、さうして牛肉へ玉子を入れて食つたら人生の望み足る。」(「法科回顧録」『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻 一〇頁)というような無邪気な学生さえ、創立当時の学苑にはいたのである。

六 三田風と早稲田風

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 東大との比較から慶応義塾を対象に置き換えると、同じく私立と言っても、大先輩の三田とはやはり著しい学風の差異が認められる。

 封 建的弊風の打破に全力をあげた福沢諭吉は維新の頃塾生が両刀を帯して来るのを、馬鹿メートルとして佩用を禁じ、月謝を奉書に包んで水引をかけて納めるのを、いらぬ手数だと言って目の前で剝ぎ捨て、自分は着流しで教壇に立ったと言われる。早稲田では、明治四十年代の初頭、田山花袋を臨時講師として迎え、「描写論」の講義を委嘱したところ、着流しで教壇に立つので事務当局が当惑したと伝わっている。図書館では、袴を着用せぬ者には一切入館を許さなかった。

 西郷隆盛は、その勧めで慶応に入った門下の鮫島武之助に、「福沢のところはこれでなくてはいかんから」と言って、祝いに角帯を贈っている。薩摩は、有名な健児の社で鍛えられる青年達を兵児と称し、締めるに独特のしごき帯を用いた。これが兵児帯である。維新後、薩摩の勢力が江戸を侵すに及んで、江戸から変ったばかりの東京に薩摩弁がはやり、若者は好んで兵児帯を愛用するようになった。明治天皇まで若い頃これを好み、普段にはこれを用いられたというのは、西郷を殊の外愛重された感化であろう。

 しかし保守的な、いわゆる地味な家庭ではひどくこれを嫌い、殊に自由民権の情熱に燃える青年志士がこぞってこれを用いだしたので、下町の良家では、兵児帯をした客は家に入れなかったとさえ言われる。しかし早稲田の学生は好んでこれを締め、明治の四十年を越えてなお、角帯の上に袴を穿いて来る学生が早稲田でも一級に一人か二人はあったにせよ、それは異例と言うべきであった。すなわち、慶応の角帯、早稲田の兵児帯として対照できるであろう。 明治四十年代の初頭、『時事新報』が作文に賞をかけて、全国一県から一人ずつの代表を選んで東京に集め、有名な箇所を見物させたことがある。菊池寛が香川県から選出されて、その時の思い出を語っているが、慶応では、立派な学生集会所があって、牛乳入りの紅茶にケーキで迎えられ、そのハイカラさにさすがはと驚き、早稲田では番茶と塩煎餅を饗応され、やっぱり質素で蛮カラだなあと感じたと言っている。すなわち慶応のケーキに早稲田の塩煎餅という対置になろうか。

 早慶野球戦は、次巻に説述するように、最初早稲田から申し入れて、橋戸信と泉谷祐勝両選手が慶応を訪ねると、只今練習中だから暫く待ってくれと言われ、こちらの思ったよりもなかなか手間が取れた。実はシャワーを浴びて泥まみれの全身を洗い、珍客を迎えるのに服装を改めて出てきたのだ。そんなことは無雑作に考えていた早稲田の両代表は、その紳士的な礼儀正しさにひどく感心したと伝わっている。この時も紅茶とケーキが出て、そういう設備の一切ない自校の佗びしさを思わずにはいられなかった。

 野球と言えば、昭和の初め、連敗の早稲田が豪球伊達正男の三日連投という六大学リーグ戦史上の新記録で慶応を破り、一世を湧かす話題になった。その時、慶応の旧選手小山万吾が座談会で「塾には伊達君のような種馬がいないから」と言ったのは、語は下卑ているが、ある意味で両大学の気風の特徴を明らかにしたとも言える。野球評論家は、これを「野球に英雄的時代よみがえる」と呼んだものであった。往昔中江兆民は、「伊藤博文と大隈重信の差は質的なもので、伊藤は才子の上乗たるに過ぎぬが、大隈は風格は下卑ても英雄の最下なるものだ。」と言っている。その言の如く、稀にではあっても英雄的風雲を起す基盤が、早稲田にはどこかにある。

七 野党と反体制的

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 後年、早稲田大学の講演部長であり、浩瀚なる『早稲田精神』の著者であった中谷博は、毎年、新入生を迎えると、彼らを大隈講堂に集めて必ず絶叫して説いた。「野党的精神!これぞ我が大学の精髄である」と。確かに野党精神は、泥臭さ、田舎臭さに対する楯の半面で、しかもこの方が表面として重きを置かれねばならない。

 野党とは、官党もしくは政府与党に対する対語である。前編に述べた如く、早稲田は、大隈重信が宮廷藩閥連合のクーデターによって下野したのを契機に創立せられたので、巣立ちそもそもから螳螂の斧、蛟竜の鎌首、野猪の突進力、或いは不動明王の降魔剣的気風を総合して具えているのである。そこで、もしその前、大隈が筆頭参議として無上の権力を揮った明治十二、三年に設立が思い立たれたのであったら、早稲田学苑は政府の走狗、御用機関たることをその学風としたであろうかという疑問が生れてくる。恐らく否!実は反逆は大隈の土性骨で、早く郷里の佐賀にある日から、洋学派の牛耳を執り、伝統の藩学に対抗しており、後年志を成して廟堂に立つに及んでも、政府役人を各藩が縁故の手蔓で採用する弊を絶とうとして、学校で新教育を受けた慶応出の新人を採用した事跡を見ても、大隈の息が掛かって誕生する学苑である以上、必ず猫の如き従順性に終始したとは思えない。況んやクーデターの勢炎の中から飛び立ったのだ。

 しかし本来身に具えた反逆性以上に、官僚の色眼鏡でその染色がいよいよ濃厚に誇張せられたことも争えない。太政官終末期の公卿藩閥政府は、大隈を敵視するのあまり、これを西郷の例に比し、第二の私学校と誣いて、あたかも謀叛人の養成所なるが如く宣伝した。西郷は武人であり、現役の陸軍大将であり、背後に軍事的勢力を控え、その私学校はみな西郷の恩顧の崇拝者であった。東京専門学校に至っては、大隈は軍に関係なく、寧ろ常にその疎遠者であり、募集した学生は、主従的・崇拝的縁故の全くない、いわば赤の他人である。薩摩の私学校は、武を講ずるを以て主目的とし、閑暇において農耕を営む兵農一致主義であったが、東京専門学校は、学問の独立を旗幟として掲げた、新しい文明設備の学校だ。

 しかしながら冷静に見れば、この学問の独立は、日本の文化史上、最も目覚しい革命的烽火である。それは、既に縷述した如く、明治初期の官学教育に一般的に用いられた外国語による講義に反抗し、自国語による講義を通して日本の学問を独立させることを直接目標とし、更に学問が権力者の御用学となるのに真っ向から反対し、知識の確立、真理の顕揚を以て別目的とした。帝国大学が国家須要の人物を造ることを看板にして政府官界の御用学を講じ、官吏の養成を目的としたのを否定し、学問のための学問を看板として、これを何ものにも隷属させぬのが学問の独立なので、真理の討究は権力に屈従し、自ら歪曲してはならぬと、その理想はまことに遠大であった。

 その最もよい一例として、早稲田の史学が古代史の虚構の是正に容赦なき態度を執り来たったことが挙げられよう。夙に朝河貫一が、一九〇二年、エール大学に提出した博士論文において、勅撰史『日本書紀』は皇室の繁栄を誇示する御用学的曲筆が多く、到底記載のままに受け取り難いとして、新しき史眼で大化改新の史実を究明したことは、既述した(三五四頁)如くである。すなわち、朝河論文は、曲筆、隠蔽、削除ほしいままの放濫の姿にあった日本史を、根底から転覆する地雷火の如き使命を帯びて出現したのであった。そして黒板勝美の批判に答えて、アメリカには皇室とか国体とかを顧慮しなくともよい歴史的真理探求の無限の自由があることを高唱して、日本史の根本的再検討の必要を強調したことも、繰り返す必要がないであろう。爾後四十年の歳月を経て、たまたま戦時政府の忌諱に触れ、皇室の尊厳を冒涜するものとして下級審では有罪判決を受けた津田史学を早稲田が生み出したのは、異とするに足らないのである。

 思うに「学風」という語は、その大学の学問的風潮という面に重きを置いて解釈もできるし、またそれに付帯して生じた大学の風俗という、社会的な意味に取って考察もできる。何れにしても、その二面が楯の表裏を成して一体であることは、前に説いた。

 そのうち学問的一面は大学史の本道として記述してきたし、今後も記述するので、ここには、本史に十分に拾えなくて、それから漏れているような瑣末な、或いは重要でない事項を掻き集めて、並べてみた。これは、学風としてはその方が具体的なイメージを与え、却って読者に、今は散逸消滅してしまったような様々な思い出や連想を誘発する機縁となって、或いは大学への興味や愛着を増すこともあろうかという顧慮からに外ならないのである。